両翼と神を失っても僕は

 二年続けた職場をこの春に退職することになりました。主な原因は、法外な労働時間、パワハラ上司、人間関係、持病の悪化(ヘルニア、うつ病)です。
この二年それなりに真面目に働いてきたつもりです。でも限界を迎えてしまいました。正直、過去の自分の怠惰が一番の理由だとは思っています(僕は大学を中退し、二年の空白期間があります)しかし、この国はおかしい、緩やかに終わっていくのではないかと思うようになりました。これは、惨めで学のない男のただの愚痴です。ひとまず僕の日本に対する考えを述べていきたいと思います。

・三つの勢力の不可能性
 まず戦後の日本の歴史を振り返り、今の日本がなぜ現状に至ったのか、僕なりに解釈していきます。僕は1994年生まれですから、文献上でしか知りえません。しかし、当時を生きていた人には、どれも衝撃的な事件であり、未だにその傷跡を残し、今の日本の若者の思想を縛る鎖となっていると思います。
 まず日本は第二次世界大戦で大敗をしました。しかも二度の核兵器を落とされて。これにより右翼的思想は、事実上の敗北をします。そして一時的GHQにより日本は様々な政策を強制的に強いられます。しかし、これは一時的にではないのです。今もまだアメリカによる支配が続いています。その象徴として日米合同委員会があります。これは定期的に日本の官僚と在日米軍の密会、密約製造機と呼ばれています。日本がアメリカの操り人形という所以はここにあると思います。
 次にあさま山荘事件です。連合赤軍と名乗る新左翼の組織が起こした事件です。詳細は省きますが、赤軍は目的遂行のためなら、犯罪行為をも厭わない組織でした。これにより、日本人に左翼的思想も危険なものであるという印象を与えてしまいました。これに左翼的運動は沈静化に向かいました。
 この二つの出来事が日本人に政治的思想を公で話すことはタブー視されることになります。政治団体、運動は危険で愚かな行為であると。そしてその空気を吸って育った今の若者は、政治に無関心になってしまったのです。僕は右翼的思想も、左翼的思想もどちらも部分的には理解できるし、どちらも必要な思想だと思います。むしろほとんどの国が、この対立する思想により発展を遂げていきました。共産主義ソ連の崩壊を考えれば明らかですね。今の若者には、思想という翼を失われた。右翼、左翼、政治的思想で自分たちの生活がよくなることはないと。
 最後の勢力は宗教です。宗教も日本人の間でタブー視されることの一つですね。しかし本来、宗教とはある種の信念を共有する集団であり、人は本質的に集団に帰属するものです。だから国教をもつ国は多いですし、ある意味でその国は強いのです。ではなぜ日本では宗教がタブー視されるのか?それは間違いなくオウム真理教という存在です。彼らの起こした数々の凶悪事件によって、宗教は危険であると日本人の意識に埋め込まれてしまいました。これによって今の若者は神をも失いました。

・両翼と神を失った若者の行先
 前章の通り、今の日本人、特に若者は、政治、宗教はタブーであるという空気を浴びて育ちました。僕もその一人です。しかしそれは、社会への無関心という罪とも言えます。僕は、働くまで色んなことに無関心でした。アニメ、小説、映画、音楽いわゆるサブカルチャーという虚構に夢中でした。今の若者のほとんどの人がそうではないでしょうか?『絶望の国の幸福な若者たち』という著作が話題になりましたが、今の若者の幸福はささやかなものです。鳥籠で餌を与えられて喜ぶインコと同じです。しかし、社会に出るといろんな違和感に気づきます。様々な理不尽に突き当たります。これについては人それぞれだと思いますが、僕が許せないのは、昔の負の遺産を僕たちが処理しなくてはいけないことです。前章の三例もそうですが、国の借金を僕ら若者が担い、おそらく僕らの下の世代はもっと大きな負担を強いられるでしょう。今の高齢者、特に政治家は勝ち逃げをすることしか考えていません。
 次に許せないのは、超格差が発生してしまっていることです。『アンダークラス』(橋本健二ちくま新書 2018)によると約930万人の平均収入が186万円であるということです。僕は幸いこの額を上回っていますがそれは、月300時間労働のおかげで時給にすると最低賃金に近いです。
 僕は、自民党が加速させた資本主義自体は否定しません。努力したものがより多くの対価を得ることは正しいと思うからです。しかし、資本主義では努力が対価に結びつくことはイコールではありません。そこには環境や、運が大きく絡みます。その環境と運の分は高所得者から低所得者へ分配するべきだと思います。
 しかし、ただ分配すればよいという訳にいかないのが今の日本です。低所得者の中には、僕のように自分の怠惰で招いた人もいれば、病気や、親族を失って、そうならざるべきを得なかった人もいるでしょう。生活保護申請の複雑さや条件の厳しさを見れば明らかでしょう。本当に助かるべき人が助からず、僕らはそれを見て見ぬふりをしてしまっている。
 ではなぜ、人々はこのような理不尽を見て見ぬふりをしているのか?それは自分のことで精一杯だからです。大学を卒業しても、非正規労働者になってしまう人も多いですし、奨学金の返済、ブラック企業など様々な障害が若者を追い詰めます。しかし、国は家庭を持て、税を収めろと更なる負担を課していくわけです。こんな状況では、他人に、政治に目を向ける余力はありません。これこそが今の政権のやり口です。資本家たちが、資本主義の政治家に票を入れる、貧困に悩む人や若者はそんな余裕がないから他の党に票を入れない/または投票すらしない。最悪のスパイラルです。前述の『アンダークラス』の著者、橋本健二氏は今の日本を変えるにはそのアンダークラスの人々が決起するしかないと著作を締めくくりますが、決起するにはコミュニティと強いリーダーが必要になります。今の若者は虚構ではコミュニティに属していても、現実ではコミュニティに属さない人が多く、また強い責任を担うリーダーは現れないでしょう。なぜなら僕らの世代は、ことなかれ主義の中で育てられてきたのだから。橋本健二氏も決起の必要があるとわかっていても、しないでしょう。彼も勝ち逃げ世代だからです。

・それでも僕は
 このように日本の未来は真っ暗です。それでも僕は明日が欲しいです。明日とは今日より素晴らしい日ではなくてはいけません。右翼、左翼的思想も共感するところはあれど、どちらも不可能性をもっています。右翼は5km頭上の太陽を掴むようなもの、左翼は半径5kmの人間全てを平等に愛するようなものです。だから僕は半径5mの人間だけ全力で愛しましょう。排他的な考えだと思います。でも人はそれぞれ違う半径5mの世界を持っていますし、愛を愛で返す力があると信じています。だからその半径5mの輪は連鎖し広がっていくはずです。無力な僕は今はこれしかできない。でも徹底的に貫きたいと思います。
 僕は、将来的に福祉の仕事に就きたいと思っています。春から通信制の大学で資格取得を目指します。福祉というと高齢者や障がい者に焦点が当てられがちですが、僕は子供たちを支援したい。家庭環境や様々な理由で社会から逸脱せざるを得なかった子供たちの力になりたいのです。僕は僕の世代はもうこの負の連鎖から逃げられないと思っています。それほどに日本は狂ってしまったのです。でも僕は日本が好きだ。だからせめて、次の世代の子供たちに負の遺産を受け継がせてはいけない。そのためには教育など様々な分野の改革が必要になるでしょう。僕は無力です。ただの学のない惨めな男です。でもだからこそできることがあると信じたいです。

誇りと奢り

 長年一つの学問や仕事に携わっていれば、その人の中にそれに対しての誇りが生まれるのは当然だし、それは素敵なことだと思うのだけれども、今は誇りを通り越して奢りになっているのではないかと思う人に囲まれているのが息苦しい。
 
 もちろん人が狩猟生活を止めてから、人の役割は個別に持つようになり、各分野のプロフェッショナルな人がその分野の役割を果たしてきたし、それは理にかなったことだと思う。けれどもだからといってそれを奢ってしまうのはどうなんだろうかと思う。
 例えば、哲学のプロフェッショナルな人がある日、農場で集団生活をしなくなってしまったらどうだろう?そこではその人が積み上げてきた哲学への探求は無効で農業のプロフェッショナルな人に一から教えを請わなくては生活できないだろう。別に人類愛を説きたいわけではないけれど、そうやって人は支えながら生きているのだから。

 何が言いたいかというと結局、単に仕事の愚痴。10月から現場から中間管理に職務が変わったのだけれど、そこの上司やおばちゃんのもの言いや当たりがとてつもなくて辛いという話。確かに彼らにも何十年も同じ職場で働き、誇りがあるとは思うのだけれど。

 これは今のTwitterでも同じことを感じてしまっている。人は個人で全ての分野のプロフェッショナルにはなれない。だから極端な言い方をすれば、人は一生無知で、学び続けなければ生きていけないというのが僕の考えで、それを考えたらTwitterで何かを呟くのも物申すマンを見るのも嫌になってしまった。

 薬の量を限界量まで服薬し続けて二年。一向に減らない。来年からは働きながら通信制大学に通う予定。前の大学の単位を換算できるから2年で卒業出来て、54万の学費。今の貯金は100万ちょっと。正直、今の仕事を今すぐにでも辞めたい。でも今までサボってきた分、この位は頑張らないといけないと思う。

言葉と表現

『執筆しない物書きは、狂気を求める怪物です』 ーフランツ・カフカ

 
 言葉というのは矢にもなるし水にもなる。矢となった言葉は本物の矢と違って、突き刺さって一生抜くことができずに傷となる。水になった言葉は大海へとただ流れていく。大衆という海に消える。


 こんなことをいうのはTwitterが苦痛になったからだ。人のツイートもだけど、自分の言葉を延々と垂れ流せるのが嫌になった。その点、今はこのブログになにかを書く方が気持ちがいい。言葉の積み重ねと言葉の羅列は違う。表現にならない。色んな事を学べば学ぶほど言いたいことは増えるけど、Twitterでそれをするのは危険だ。誤解を招きかねないし、人を不快にする可能性だって大きい。だけれどこのブログに書けば、リンクを踏むというめんどくさい作業により、読む人を厳選できる。僕の言葉と表現を読んでくれる人は、僕に興味がある人か暇人だけになる。だから本心を言える。まだ上手くないけれど僕という人間を表現できる。
 だから僕はそれを歌や文章や絵に出来たらいいと思う。そのための言葉を磨く。それをどう思うかは受け取った人次第で、肯定も否定も求めない。僕は職業として表現者になりたいわけではなく、ライフワークとして行いたいのだ。
 
 
 頭の中とTwitterを連結させない。毎日アウトプットする。こんなことを書いてる時点でまだ未熟だ。究極の理想は、音楽と文学と絵だけで僕という人間を表現することなのかもしれないとふと思った。

 今の職場に就職して10ヵ月。謎の昇進をして残業こそ減らないものの、大方の生活サイクルが確立出来る位には仕事にプライベートが侵されることはだいぶ少なくなった。朝6時に起きて、8時に出勤、18時~22時には退勤。帰宅したら嫁と夕食をとって雑談をして、残りの時間は絵と歌の練習、DTMと読書をしてごくたまに友人と通話して4時に寝る。多分今の自分は幸せなんだと思う。昔に比べれば色んなことが改善されて、今のところお金には困っていない。
 
 だけれども、最近自分が何かをするたびに自分の無力無知や過去の過ちを痛感して焦燥感に駆られる。これも多分いいことなんだと思う。自分を過信しないことに繋がっているし、この気持ちが僕のプライベートの行動を決定づける。
 例えば今練習している絵なんかは、酷過ぎてTwitterで客観的に見て恥を晒しているだけだと思う。でもまたペンを握る。上手くなりたいから。
 今作っているアルバム(作詞作曲編曲は一通り完成している)はここ半年の使える限りの時間全てを使って作った。でも自分の才能とはこんなものかと思う。だから次の作品の為にまた楽器とDAWに向き合う。いい曲を書きたいから。
 本を読むたび一冊につき十冊は読みたい本が増える。なんて自分は無知なんだろうと思う、色んな物語を読みたいと思う。だから今日もページをめくる。

 ふとした時に、この終わりのない旅に迷い込んだ僕は「無」になる。「虚無」ではなく「無」だ。これは多分人間が持つ感情で一番危険な感情だ。だから今日も僕は大量の抗うつ剤を飲んで、愛/憎(これは僕にとって永遠の問題だ)について考えながら上記のことをする。

なぜ、人は世界の終わりを求めるのか?

 「神が存在しないならば、私が神である」-ドストエフスキー『悪霊』

 
 「世界の終わり」という題材はしばしば多くの物語を生み、人々を惹きつけます。2018年も「世界の終わり」を題材とした小説が数多く出版されました。好例をいくつか挙げると、ジュブナイル小説と近未来的村社会小説に世界の終わりを組み込んだ、柳瀬みちる『明日、君が花と散っても』、セカイ系を自己の拡大のみならず、他者の視点からも綴った、恒川光太郎『滅びの園』。数世代に渡り、世界の終わりに立ち向かう人間を書いた、山田宗樹『人類滅亡小説』等でしょうか。
 
 僕自身、世界の終わり/終末モノといわれるジャンルに惹かれ続けてきました。何故これほど人間はこの題材を選び、惹かれるのか?長年の僕の疑問に決着がついたので、まとめようと思います。この結論に至ったのには、終末論と予定説、神の代役という概念が大きく絡むのでそこから考察していきたいと思います。


・終末論と予定説
 
 終末論とは簡単に説明すると、世界最後の日に「最後の審判」が行われ、生前に神を信じ善行を積んだ者は天国に、神を信じず悪行を積んだ者は地獄にという多くの宗教の核となっている思想のことです。
 
 反対に予定説とは、カルヴァン主義の根幹を成す生前の行いは関係なく、選ばれた者だけが天国へ、残された者は地獄へ落ちるという、救済はあらかじめ生まれた時から決定しているという思想です。
 
 後者は、両親から受け継がれた能力と生まれ育った環境が人生を左右する、現在の人間社会の状況に似ていますね。前者も、善悪の概念は切り離して考えると資本主義の思想そのものです。そもそも、世界経済はアダム・スミスの『国富論』による終末論に由来した「(神の)見えざる手」によって動かされています。日本は地理的にも歴史的にも宗教とは無縁と思われがちな国ですが、こう考えると日本という国も宗教から多大なる影響を受けているのです。
 
 この二つの思想は一見、相反する思想ですが、今の世界はこの二つの思想が混ざり合い、出生や環境がその後の人生を決定づけるが、最後の審判の日には個人の生き様が評価され、最後には救済が待っているという一つの神話を生み出しています。しかし、その最後の審判とは一体、いつ起こるのでしょうか?今の日本の状況を見ると、小中学校は基礎学力を蓄え、隣人と仲良くすることを、高校ではより良い大学へ入学する為にに勤勉であることを、大学ではより良い企業に就職する為に自分をいかに立派な人間であるか繕うことを、社会人になるとより良い収入、さらには家庭を持ち、立派な子どもを育て上げることを強要されます。このシステムでは、人生に最後の審判の日は時は、死ぬまで(もしかすると死してなお)訪れず、救済は行われません。このことに対する不満や不安や怒り、そもそもの予定説への不堪が、人々が「世界の終わり」を夢見ることに繋がっているのではないでしょうか。
 
 さらに現代では、上級階層は短時間で高額なお金を稼ぎ、その利益で余計な時間を短縮する道具や人を手に入れます、しかしそうではない人は長時間労働でも低賃金しか得られないので、余暇を与えられず貧困が貧困を呼ぶので、時間の平等も、さらに安楽死技術の発達、孤独死の増加、医療格差により死さえも平等ではありません。だから人々は真に平等な「世界の終わり」を望むのです。人々は「世界の終わり」という本来なら救済であったものを、この格差社会の影響から、平等な破滅として認識し始めています。その認識は神を信じ、自爆テロを行う行為にも似ています。しかし、この不平等な社会で生きる人間なら一度はそんな破滅願望を胸に抱いたことがあるのではないでしょうか?その欲望を満たす装置=フィクションとしての「世界の終わり」が人々の心を満たすのです。


 ※この考えでは僕は資本主義に反対しているように書かれていますが、資本主義自体には賛成です。ソ連や中国や北朝鮮の歴史を紐解いていくと、いかに社会主義が巧妙な罠で張り巡らされた社会であるように思うからです。行き過ぎた社会主義は、ジョージ・オーウェル1984年』のようなディストピアを具現化しかねません。また資本主義の否定は「世界の終わり」の根底を覆します。資本主義は、カール・マルクス資本論』によると、資本主義における借金とは「いつか世界が終わるという前提で成り立ち、ただしそれは今日ではない。という思想の連続である」と解釈されています。


・神の代行役
 
 前項では、神の概念の実在を前提に話を進めてきました。しかし神という概念が不在ならばどうであるのか?という疑問が生まれます。事実、日本人は無宗教国家であるのに対して、多くの「世界の終わり」を題材としたフィクションに溢れています。これはどう解釈すればいいのか?これは神という概念の代わりに「空気」といった日本独特の概念が神の代行役を果たしているのです。

 
 「空気」とは「君は場の空気を読めないね」という時に使われる「空気」です。客観的に考えて間違っていることをその場の「空気」に呑まれ正しいと主張してしまうことは日本の日常生活において多々あります。その「空気」とは一体なにか?それは日本人が美点と考える謙虚さ、忍耐、自己主張の否定といった神話が「空気」を作るのです。
 実際に第二次世界大戦においての日本は「空気」に支配された結果であるといえるでしょう。連合国陣営に枢軸国陣営が勝ち目がないのは明らかだったでしょう。しかし、引くに引けなくなった「空気」が日本を愚かな戦争へ導いたのです。その「空気」は軍法会議で無謀な作戦、神風特攻隊を生み、お国の為にと徴兵されそれを祝福しなければなりませんでした。そしてその「空気」を読めない者は弾圧されます。そうなのです。日本人の「空気」を読むとは神を信仰することに等しいのです。そして、その結果が正に「世界の終わり」に導く兵器=世界初の核兵器投下へとつながり、さらには冷戦へと繋がることになったのです。
 
 ならばその「空気」を支配する力を持てば人は、神にも等しい力=「世界の終わり」を導く権限を得ることになります。従って、神という概念をより身近に、神にも等しい力を経験している日本人は「世界の終わり」に一層、敏感になりその力の虜になるのです。


終末の過ごし方

 ここまでが僕の「なぜ、人は世界の終わりを求めるのか?」という解答になります。この項目では「世界の終わり」を簡単に分類し、具体的な作品名を3作ずつ挙げることで本記事の締めとさせて頂きます。このリストを更に細分化し、数を増やすことが僕のライフワークの一つになるでしょう。


・心地の良い「世界の終わり」
 「世界の終わり」という題材を扱った作品の多くがここに分類されるのではないでしょうか。ブライアン・オールディス『十億年の宴』から引用すると"一握りの生存者を除いてばたばたと人が死ぬ絶望的な状況にもかかわらず、主人公ら生存者たちは遠く離れた安全地帯にいて災厄を傍観していたり、無人の都市で残されたぜいたく品をあさるなどある面で楽しい冒険をしたりし、最終的には自分たちの文明観をもとにささやかなコミュニティを再建して、破滅の起こった原因や文明が滅んだ原因に対して達観した立場から考察を加える"という作品群です。

ジョン・ウィンダム『トリフィド時代』

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行

萬屋直人『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。』


・神話としての「世界の終わり」
 僕の本記事で使用した神話という概念は、「空気」すなわち人の無意識下で人を支配する概念のことです。

・『聖書』

ゲーテ神曲

・ミルトン『失楽園


・人類が生まれ変わる階段としての「世界の終わり」
 人類が次のステップに上る為には、一度「世界の終わり」を迎える必要があるという考えのもと描かれる「世界の終わり」です。これはSFと相性が良く多々題材にされます。

・アーサー・C ・クラーク『幼年期の終わり

ブライアン・オールディス『地球の長い午後』

・似鳥航一『この終末、ぼくらは100日だけの恋をする』


・警告としての「世界の終わり」
 核兵器等、行き過ぎた人類の発展や思想が「世界の終わり」を導くという警告が含まれた作品群です。

・ネヴィル・シュート『渚にて

スタンリー・キューブリック博士の異常な愛情

アンドレイ・タルコフスキーサクリファイス


・世界の定義を個人が認識しうる範囲の世界と置き換えた「世界の終わり』
 このジャンルは一種の「セカイ系」と捉えても良いのではないでしょうか。「セカイ系」の定義についてはまた別途書きたいですね。少なくとも東浩紀による定義には疑問を感じています。 

アンナ・カヴァン『氷』

・ケヴィン・ブロックマイヤー『終わりの街の終わり』

・大塚 英志、衣谷 遊『リヴァイアサン


・愛に溢れた「世界の終わり」
 「世界が終わり」が訪れるからこそ、残された時間が僅かであることが確定した為、人間は本当の愛を見つけるというかなり偏った思想に基づく作品群です。でも僕はこの「世界の終わり」を望んでいるし、信じています。

・市川拓司『こんなにも優しい世界の終わり』

・一二三スイ『世界の終わり、素晴らしき日々より』

大槻涼樹終末の過ごし方 -The world is drawing to an W/end-』



・主な参考文献


『聖書新共同訳』日本聖書協会 、1996
宗教多元主義 増補新版』ジョン・ヒック、間瀬啓充訳、法蔵館、2008
『世紀末―神々の終末文書』草野巧、新紀元社、1997
『J・カルヴァン キリスト教綱要』ジャン・カルヴァン 、 久米あつみ訳、教文館、2000
国富論アダム・スミス山岡洋一 訳、日本経済新聞社出版局、2007
『資本主義・社会主義・民主主義』J.A. シュムペーター中山伊知郎訳他、東洋経済新報社、1995
『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2016
ヒトラーの終末予言 側近に語った2039年五島勉祥伝社、2015
『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド、倉骨彰訳、草思社、2000
『憎悪と愛の哲学』大澤真幸KADOKAWA、2017
国家神道と日本人』島蘭進、岩波書店、2010
『世界が終わる夢を見る』亀山郁夫丸善出版、2015
『戦後入門』加藤典洋筑摩書房、2015
『十億年の宴』ブライアン・オールディス浅倉久志訳他、東京創元社、1980





 

僕がバンドを辞めた理由、もうライブをしないと決めた理由、それでも音楽を続ける理由

 皆さんライブハウスは好きですか?インディバンドのライブは好きですか?正直、僕は演者としても聞き手としてもあまり好きではありません。
勿論、素晴らしくて楽しい瞬間も沢山ありました。それでも僕がもうライブ、またそれに付随する文化というものにもうあまり関わりたくないのには理由があります。僕は今、田舎に住んでいて「君は安全圏にいるから言えることだよ」と友人に言われました。その通りです。なので不快な思いをする方がいたらすいません。ただこの文章は純粋に音楽が好きな人間が純粋に書いたまでです。また特定のバンドや人物を指している訳ではありませんのであしからず。

・演者として
 一応それなりにライブはしてきた自負はあります。色んなバンドで、色んなパートで。そこで感じたのは、僕は本当に人前で演奏するのが駄目な人間ということです。
 理由として、まず第一に僕は表舞台に踊り出てよい人間ではありません。精一杯楽器を練習しても、人前に立つと普段通りに演奏出来ないだとか、容姿が整っていないだとかもありますが、根本的に人前に出てはいけない人間です。放送禁止人間です。人前に立った時点で放送事故です。僕が人前に立つとその場が終わります。わかりやすく言うならば、小学生の時に自由研究の発表会みたいな場で、人前で話す機会が誰しもあると思います。そこで頑張ってるのはわかる、でも上手く喋れず、ただ場を凍らせることしか出来ない子が一人はいたはずです。いたたまれない空気を作りだしてしまう、それが僕です。
 第二に僕(ら)の演奏には人様が汗水垂らして稼いだお金や、貴重な時間を頂く程の価値があるのか?と思ってしまうからです。正直、交通費込みで3000円程度、全てのバンドの演奏を聞くとして、時間にして約4時間。僕だったら小説を1冊か2冊買ってそれを読む方が断然いいです。(それぞれの人がそれぞれの楽しみ方をして欲しいということです)
 第三にバンドというのは音楽を作る、演奏するということの他に人柄も問われます。"音楽"だったら無関係かもしれませんが、"バンド"でしたら間違いなく問われます。プロなら話は違うかもしれませんが、アマチュアとしてなら、人間としての最低限の挨拶、感謝、お金のやりとりはもちろん、コミュニケーション能力とカリスマ性が必要です。バンドの演奏を聞きに行く、ということにプラスしてその人たちに会いに行きたいと思わせなければなりません。僕はコミュニケーション能力もカリスマ性もありません。僕にバンドマンとしての付加価値はマイナスです。
 以上のことを考えてしまう時点でバンドで演奏する資格はありません。だから辞めましたし、もう二度としません。それは一緒に演奏してくれる人やライブハウスのスタッフさん、そして何よりも聞いてくれる人に失礼です。侮辱です。

・聞き手として
 同じくそれなりにライブハウスに足を運んできたと思います。それこそ好きなバンドのライブ動画を何回も何回も見てきた人間です。基本的にライブが嫌いな訳ではないです。ただライブハウスの居心地の悪さや情報量の多さは苦手です。せめて椅子を用意して欲しいし、なんなら出入り自由にして欲しい。労働でもないのに狭い空間に4時間閉じ込められるのは拷問に近いです。また人がいない平日のブッキングライブのいたたまれない空気、満員に近いライブハウスの人の多さどんな環境でも苦しいです。僕は部屋の隅でリラックスして好きな音楽を聞くのが一番好きです。だったらよいオーディオ環境を揃えて部屋で一人で聞けばいいのです。それでもライブハウスに通ったのは、正直付き合いや打算もあります。もうそういうことはしたくないです。誤解して欲しくないのは、僕の好きなバンドは、僕の想像以上のモノを与えてくれましたし、ライブハウスでの出会いには感謝してます。でも社会人となり時間の制約が生まれた今、少ない時間を犠牲にしてまで、頻繁に足を運ぼうと思える人間では僕はないです。

 ということでもうライブやそれに深く関わることとは、もうないんだろうなと思います。(もちろんそこで頑張っている友人や好きなバンドは応援していますが)それでも僕は音楽を続けるのは音楽が好きだからですし、バンドと違って、音楽そのもので評価されるからです。人柄やその人がどんなに努力しようが関係ない音で勝負したいからです。凡人の、宅録の限界、新しいスタンダードを提示したい。そして自分の限界を知って、ちゃんと諦めたいからです。落としどころをつけたいのです。10年以上関わってきた音楽と、どう付き合うのかということに。
 
 ここ数年で音楽を取り巻く環境はずいぶん変化しました。ストリーミング配信という存在が現れた以上、もう音楽自体に金銭的価値はないのかもしれません。無料が当たり前、むしろ莫大な音楽を選り取り見取りな今、プロでもバンドでもない自分の作った音楽に時間を割いてくれる方には、逆にお金を払ってもいいと僕は思います。だから僕は新しいやり方でアルバムを発表したいと思います。
 曲は全部出来てあとはベースとボーカル、コーラスを録音してミックスという感じでしょうか。正直、全曲冷静に聞いたら、凡人が頑張ったね~よしよし~えらいえらいみたいな感想しかないです。今のところ。ここからが本当の勝負です。自分の為に、ライブハウス以外でも戦えることを証明する為に頑張ります。

終わりの始まり、或いは失われた始まりの終わり

 あなたは、圧倒的な敗北を、挫折を、屈辱を、劣等感を、無力さを、世界に対しての恨みを感じたことはありますか?むしろ感じたことがない人の方が多いと思います。自分だけが辛い、自分だけが正しい、自分だけが特別だと誰しも思いたいはずです。

 僕は凡人、いや、それ以下の存在でしょう。それは何をやっても上手くいかない自分の不器用さだとか、自分の容姿の醜さゆえでしょう。元々怠惰な性格なのもあるでしょう。世界は残酷でとても明確です。美しいものは正しく、醜いものは間違っているのです。
 僕が幼いときに、父親はある罪を犯し捕まりました。離婚し、母は鬱病になりました。田舎の祖父母の家に住むようになりました。祖父は亭主関白でした。家に僕の居場所はありませんでした。小遣いを与えられない家庭でした。友達と呼べる存在は出来ませんでした。そんな僕が出来ることは図書館に通うことでした。たくさんの冒険をしました。たくさんの仲間に出会いました。たくさんの恋に落ちました。物語だけが僕の救いでした。
 中学生になると、いじめが始まりました。当然のことでしょう。僕は、天然パーマで、ニキビ面で、歯並びが悪く、トロかったのです。醜いことは悪なのです。そのころ祖父母が認知症になり、家庭が崩壊し始めました。当時Youtubeや深夜アニメの台頭によりますます物語とそしてその時出会った音楽にのめり込んでいきました。
 高校生になるとアルバイトが出来るようになります。僕は醜い自分を変えるためにアルバイトを始め、ストレートアイロンを買いました。様々な化粧品を試しました。食事制限をしました。歯科矯正をするためのお金を貯めました。その努力により多少はマシになったのでしょうか。中学時代より遥かに過ごしやすくなりました。しかし他人と関わることが増えると逆に僕と世界に対する断絶を感じるのです。結局僕は、高校3年時は保健室登校で終わりました。家に居たくなかったので、毎日閉店までブックオフか図書館で過ごしました。
 大学生活も同じようなものです。1人暮らしを始め、念願のギターは買えたものの、他人との断絶は広がっていくように感じました。
 そんな僕にも転機が訪れます。決定的な出会いです。For Tracy Hydeの管さん、U-1さん、Boyishの岩澤さんです。彼らのおかげでこんな僕にも仲間が出来ました。たくさんの人、たくさんの音楽、たくさんの天才に出会いました。僕も音楽を作ってみたいと思いました。夜勤のアルバイトをしながら、機材を整え始めました。でも現実は甘くないのです。ゴミみたいな曲しか出来きませんでした。僕は才能がないんだと感じ、裏方に徹することにしました。Boyishにシンセとして管さんのサイドプロジェクトであったTenkiameのギターとしてです。彼らの才能/努力に甘えました。結局、僕はまた諦めてしまったのです。仲間とただ無為な時間を過ごすことに甘えました。馴染めなかった大学はろくに行かずに、学費を稼ぐためのバイトと読書とバンド活動を続ける日々でした。また僕は現実を拒否してしまったのです。
 転機は訪れます。ある人物にお前は努力もしないのになんでモテるのか、死ねばいいのにと言われました。僕自身、容姿にコンプレックスを抱えたままでありましたし、努力をして諦めた上だったのでその一言は突き刺さりました。でも僕の言う努力は偽物でしかなかったのです。(それは過去に記事を書いたのでそちらを参照して下さいむしろこの記事の方が僕の言いたいことの全てです)

blueseagull.hatenablog.com

 
 だから僕はFragile Flowersという音楽ユニットを始めました。何作か作品を出しました。でも僕は長山香奈になれませんでした。凡人のままです。彼女の言う才人にはなれなかったのです。僕はこの2年間何をしていたんだ、自分に吐き気がします。
 それは人の評価によるものでは決してないのです。自分自身が納得できないのです。未だに自分に自信を持てないのです。僕は自信が欲しいのです。過度な自信を持つことは危険なことでありますが、自信を持っている人は輝いています。表情が違います。高校時代の長山香奈と成人後の彼女の顔を見ればわかります。自分の積み上げたものが糧になっているからです。だから人は彼らに惹かれついていくのです。そして物事は上手くいくのです。
 自信をもっている人間というのは、2つの人種に分けられると思います。1つは前述した通り努力した人間です。もう1つは僕が最も憎むべき人種である、神様から与えられたギフトを持っている人間です。そのギフトとは、容姿が良い、裕福な家庭に生まれた、何かしらの才能を与えられることなどです。そのギフトは努力をあざ笑うかののように、踏み潰してしまう力を持つのです。僕はそれがとても許せません。この神様は残酷で、この世界は狂っているのです。別に僕は自分が不幸な人間だとは思いません。ただ怠惰で醜い人間だとは痛感しています。そんな人間ではこの狂った世界では生き延びれません。だから僕は生き残るために努力をするのです。努力し、自信を得たら世界が変わると信じているのです。僕の中の生存本能が僕を突き動かすのです。何人かはそんな僕を馬鹿にしました、何人かはそんな僕を軽蔑しました。何人かは狂っていると言いました。それでもかまいません。僕には努力して才人になった果ての夢があるのです。夢を叶えるには何もない僕には努力する以外にないでしょう。
 僕は長年患っている鬱病不眠症を理由に大学を辞めました。また逃避したのです。誰ひとりとして友人がいない田舎の町で暮らし始めました。高卒で何も資格をもたずに、取柄もない僕が就職した会社は清掃会社です。そこは社会の掃き溜め場所でした。僕みたいな人間が、様々な事情を抱えた人間が、狭いコミュニティでにらみ合っている底の底です。自業自得です。

 ここからが本題です。なぜ僕はFragile Flowersで才人になれなかったのか?それは努力が足りないこと、そして人に頼った部分も大きいからです。だから僕はメンバーを全員クビにしました。本当に身勝手な行いです。だけど僕はそこまでしてでも才人になりたいのです。申し訳ないことをしたと思っています。ただ懺悔の気持ちはあっても後悔はしていません。たった1人で精神的地下=正解のない暗闇に沈んでいくのです。歴代の僕の尊敬する作家たちも同じような発言をしています。
 1人になったFragile Flowers=僕はどんな努力も惜しみません。ここで内容を書くのは止めておきます。完成したときに言えばいいのです。僕は口先だけの人間は嫌いです。それは過去の僕でもあります。僕は過去を乗り越え、前に進むために努力するのです。誰にも届かない歌を唄うのです。僕には誰よりも物語を愛してる自負だけはあります。口先だけじゃない。それを形にするのです。辛いときに寄り添ってくれた物語の為に歌うのです。僕にしか作れないものがあると信じて努力するのです。僕だけがセカイなのです。
 具体的な形とは才能も技術も声質にも恵まれない僕が全て作詞作曲編曲演奏するアルバムを作ることと、僕が触れてきた膨大な物語から得たものを還元することです。すでに6曲できました。誰に何を言われようが僕だけにしか作れない曲です。全てを終えた時、僕はどうなるのでしょうか。きっと生まれ変われると信じています。怠惰で醜い人間から、醜い人間に。それ以上は望みません。評価なんてされなくていいのです。誰かに貶されようがかまわないのです。圧倒的な努力を出来た才人にはそんなもの関係ないのです。僕は一生音楽を続ようとは思いません。他にもやりたいこと、夢がたくさんあるのです。そして出来る限り努力して自分の手で幸福を掴みとりたいのです。だから文字通り終わらせるための音楽を作ります。
 2019年にはなんらかの形で世に送り出します。僕が尊敬してやまない人にミックス/プロデュースを依頼しています。(そこは1人じゃないのかよと思わないで下さい。その人は僕の長年の憧れ、そして最も畏怖する努力する天才なのです)そして願うなら、その時誰か1人でもかまわないので、僕がその人にとっての長山香奈になれたらと思います。

 僕の考えや音楽を軽蔑する人もいるでしょう。批判する人もいるでしょう。かまいません。それが正論であれば受け入れ、改善する努力をしますし、的外れや価値観が違うものだと感じたら受け流します。適当に謝ってその場を収めます。それが大人になるということじゃないでしょうか。僕はもう24歳です。いつまでも子供でいたくはありません。

 今後のブログの使い方については、月1ペースで更新できたらと思っています。次回からはこんな重い話ではなく、進捗や機材、おすすめのプラグイン情報や、インスピレーションを受けている物語を紹介できたらなと思っています。