なぜ、人は世界の終わりを求めるのか?

 「神が存在しないならば、私が神である」-ドストエフスキー『悪霊』

 
 「世界の終わり」という題材はしばしば多くの物語を生み、人々を惹きつけます。2018年も「世界の終わり」を題材とした小説が数多く出版されました。好例をいくつか挙げると、ジュブナイル小説と近未来的村社会小説に世界の終わりを組み込んだ、柳瀬みちる『明日、君が花と散っても』、セカイ系を自己の拡大のみならず、他者の視点からも綴った、恒川光太郎『滅びの園』。数世代に渡り、世界の終わりに立ち向かう人間を書いた、山田宗樹『人類滅亡小説』等でしょうか。
 
 僕自身、世界の終わり/終末モノといわれるジャンルに惹かれ続けてきました。何故これほど人間はこの題材を選び、惹かれるのか?長年の僕の疑問に決着がついたので、まとめようと思います。この結論に至ったのには、終末論と予定説、神の代役という概念が大きく絡むのでそこから考察していきたいと思います。


・終末論と予定説
 
 終末論とは簡単に説明すると、世界最後の日に「最後の審判」が行われ、生前に神を信じ善行を積んだ者は天国に、神を信じず悪行を積んだ者は地獄にという多くの宗教の核となっている思想のことです。
 
 反対に予定説とは、カルヴァン主義の根幹を成す生前の行いは関係なく、選ばれた者だけが天国へ、残された者は地獄へ落ちるという、救済はあらかじめ生まれた時から決定しているという思想です。
 
 後者は、両親から受け継がれた能力と生まれ育った環境が人生を左右する、現在の人間社会の状況に似ていますね。前者も、善悪の概念は切り離して考えると資本主義の思想そのものです。そもそも、世界経済はアダム・スミスの『国富論』による終末論に由来した「(神の)見えざる手」によって動かされています。日本は地理的にも歴史的にも宗教とは無縁と思われがちな国ですが、こう考えると日本という国も宗教から多大なる影響を受けているのです。
 
 この二つの思想は一見、相反する思想ですが、今の世界はこの二つの思想が混ざり合い、出生や環境がその後の人生を決定づけるが、最後の審判の日には個人の生き様が評価され、最後には救済が待っているという一つの神話を生み出しています。しかし、その最後の審判とは一体、いつ起こるのでしょうか?今の日本の状況を見ると、小中学校は基礎学力を蓄え、隣人と仲良くすることを、高校ではより良い大学へ入学する為にに勤勉であることを、大学ではより良い企業に就職する為に自分をいかに立派な人間であるか繕うことを、社会人になるとより良い収入、さらには家庭を持ち、立派な子どもを育て上げることを強要されます。このシステムでは、人生に最後の審判の日は時は、死ぬまで(もしかすると死してなお)訪れず、救済は行われません。このことに対する不満や不安や怒り、そもそもの予定説への不堪が、人々が「世界の終わり」を夢見ることに繋がっているのではないでしょうか。
 
 さらに現代では、上級階層は短時間で高額なお金を稼ぎ、その利益で余計な時間を短縮する道具や人を手に入れます、しかしそうではない人は長時間労働でも低賃金しか得られないので、余暇を与えられず貧困が貧困を呼ぶので、時間の平等も、さらに安楽死技術の発達、孤独死の増加、医療格差により死さえも平等ではありません。だから人々は真に平等な「世界の終わり」を望むのです。人々は「世界の終わり」という本来なら救済であったものを、この格差社会の影響から、平等な破滅として認識し始めています。その認識は神を信じ、自爆テロを行う行為にも似ています。しかし、この不平等な社会で生きる人間なら一度はそんな破滅願望を胸に抱いたことがあるのではないでしょうか?その欲望を満たす装置=フィクションとしての「世界の終わり」が人々の心を満たすのです。


 ※この考えでは僕は資本主義に反対しているように書かれていますが、資本主義自体には賛成です。ソ連や中国や北朝鮮の歴史を紐解いていくと、いかに社会主義が巧妙な罠で張り巡らされた社会であるように思うからです。行き過ぎた社会主義は、ジョージ・オーウェル1984年』のようなディストピアを具現化しかねません。また資本主義の否定は「世界の終わり」の根底を覆します。資本主義は、カール・マルクス資本論』によると、資本主義における借金とは「いつか世界が終わるという前提で成り立ち、ただしそれは今日ではない。という思想の連続である」と解釈されています。


・神の代行役
 
 前項では、神の概念の実在を前提に話を進めてきました。しかし神という概念が不在ならばどうであるのか?という疑問が生まれます。事実、日本人は無宗教国家であるのに対して、多くの「世界の終わり」を題材としたフィクションに溢れています。これはどう解釈すればいいのか?これは神という概念の代わりに「空気」といった日本独特の概念が神の代行役を果たしているのです。

 
 「空気」とは「君は場の空気を読めないね」という時に使われる「空気」です。客観的に考えて間違っていることをその場の「空気」に呑まれ正しいと主張してしまうことは日本の日常生活において多々あります。その「空気」とは一体なにか?それは日本人が美点と考える謙虚さ、忍耐、自己主張の否定といった神話が「空気」を作るのです。
 実際に第二次世界大戦においての日本は「空気」に支配された結果であるといえるでしょう。連合国陣営に枢軸国陣営が勝ち目がないのは明らかだったでしょう。しかし、引くに引けなくなった「空気」が日本を愚かな戦争へ導いたのです。その「空気」は軍法会議で無謀な作戦、神風特攻隊を生み、お国の為にと徴兵されそれを祝福しなければなりませんでした。そしてその「空気」を読めない者は弾圧されます。そうなのです。日本人の「空気」を読むとは神を信仰することに等しいのです。そして、その結果が正に「世界の終わり」に導く兵器=世界初の核兵器投下へとつながり、さらには冷戦へと繋がることになったのです。
 
 ならばその「空気」を支配する力を持てば人は、神にも等しい力=「世界の終わり」を導く権限を得ることになります。従って、神という概念をより身近に、神にも等しい力を経験している日本人は「世界の終わり」に一層、敏感になりその力の虜になるのです。


終末の過ごし方

 ここまでが僕の「なぜ、人は世界の終わりを求めるのか?」という解答になります。この項目では「世界の終わり」を簡単に分類し、具体的な作品名を3作ずつ挙げることで本記事の締めとさせて頂きます。このリストを更に細分化し、数を増やすことが僕のライフワークの一つになるでしょう。


・心地の良い「世界の終わり」
 「世界の終わり」という題材を扱った作品の多くがここに分類されるのではないでしょうか。ブライアン・オールディス『十億年の宴』から引用すると"一握りの生存者を除いてばたばたと人が死ぬ絶望的な状況にもかかわらず、主人公ら生存者たちは遠く離れた安全地帯にいて災厄を傍観していたり、無人の都市で残されたぜいたく品をあさるなどある面で楽しい冒険をしたりし、最終的には自分たちの文明観をもとにささやかなコミュニティを再建して、破滅の起こった原因や文明が滅んだ原因に対して達観した立場から考察を加える"という作品群です。

ジョン・ウィンダム『トリフィド時代』

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行

萬屋直人『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。』


・神話としての「世界の終わり」
 僕の本記事で使用した神話という概念は、「空気」すなわち人の無意識下で人を支配する概念のことです。

・『聖書』

ゲーテ神曲

・ミルトン『失楽園


・人類が生まれ変わる階段としての「世界の終わり」
 人類が次のステップに上る為には、一度「世界の終わり」を迎える必要があるという考えのもと描かれる「世界の終わり」です。これはSFと相性が良く多々題材にされます。

・アーサー・C ・クラーク『幼年期の終わり

ブライアン・オールディス『地球の長い午後』

・似鳥航一『この終末、ぼくらは100日だけの恋をする』


・警告としての「世界の終わり」
 核兵器等、行き過ぎた人類の発展や思想が「世界の終わり」を導くという警告が含まれた作品群です。

・ネヴィル・シュート『渚にて

スタンリー・キューブリック博士の異常な愛情

アンドレイ・タルコフスキーサクリファイス


・世界の定義を個人が認識しうる範囲の世界と置き換えた「世界の終わり』
 このジャンルは一種の「セカイ系」と捉えても良いのではないでしょうか。「セカイ系」の定義についてはまた別途書きたいですね。少なくとも東浩紀による定義には疑問を感じています。 

アンナ・カヴァン『氷』

・ケヴィン・ブロックマイヤー『終わりの街の終わり』

・大塚 英志、衣谷 遊『リヴァイアサン


・愛に溢れた「世界の終わり」
 「世界が終わり」が訪れるからこそ、残された時間が僅かであることが確定した為、人間は本当の愛を見つけるというかなり偏った思想に基づく作品群です。でも僕はこの「世界の終わり」を望んでいるし、信じています。

・市川拓司『こんなにも優しい世界の終わり』

・一二三スイ『世界の終わり、素晴らしき日々より』

大槻涼樹終末の過ごし方 -The world is drawing to an W/end-』



・主な参考文献


『聖書新共同訳』日本聖書協会 、1996
宗教多元主義 増補新版』ジョン・ヒック、間瀬啓充訳、法蔵館、2008
『世紀末―神々の終末文書』草野巧、新紀元社、1997
『J・カルヴァン キリスト教綱要』ジャン・カルヴァン 、 久米あつみ訳、教文館、2000
国富論アダム・スミス山岡洋一 訳、日本経済新聞社出版局、2007
『資本主義・社会主義・民主主義』J.A. シュムペーター中山伊知郎訳他、東洋経済新報社、1995
『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2016
ヒトラーの終末予言 側近に語った2039年五島勉祥伝社、2015
『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド、倉骨彰訳、草思社、2000
『憎悪と愛の哲学』大澤真幸KADOKAWA、2017
国家神道と日本人』島蘭進、岩波書店、2010
『世界が終わる夢を見る』亀山郁夫丸善出版、2015
『戦後入門』加藤典洋筑摩書房、2015
『十億年の宴』ブライアン・オールディス浅倉久志訳他、東京創元社、1980