誇りと奢り

 長年1つの学問や仕事に携わっていれば、その人の中にそれに対しての誇りが生まれるのは当然だし、それは素敵なことだと思うのだけれども、今は誇りを通り越して奢りになっているのではないかと思う人に囲まれているのが息苦しい。
 
 もちろん人が狩猟生活を止めてから、人の役割は個別に持つようになり、各分野のプロフェッショナルな人がその分野の役割を果たしてきたし、それは理にかなったことだと思う。けれどもだからといってそれを奢ってしまうのはどうなんだろうかと思う。
 例えば、哲学のプロフェッショナルな人がある日、農場で集団生活をしなくなってしまったらどうだろう?そこではその人が積み上げてきた哲学への探求は無効で農業のプロフェッショナルな人に一から教えを請わなくては生活できないだろう。別に人類愛を説きたいわけではないけれど、そうやって人は支えながら生きているのだから。

 何が言いたいかというと結局、単に仕事の愚痴。10月から現場から中間管理に職務が変わったのだけれど、そこの上司やおばちゃんのもの言いや当たりがとてつもなくて辛いという話。確かに彼らにも何十年も同じ職場で働き、誇りがあるとは思うのだけれど。

 これは今のTwitterでも同じことを感じてしまっている。人は個人で全ての分野のプロフェッショナルにはなれない。だから極端な言い方をすれば、人は一生無知で、学び続けなければ生きていけないというのが僕の考えで、それを考えたらTwitterで何かを呟くのも物申すマンを見るのも嫌になってしまった。

 薬の量を限界量まで服薬し続けて二年。一向に減らない。来年からは働きながら通信制大学に通う予定。前の大学の単位を換算できるから2年で卒業出来て、54万の学費。今の貯金は100万ちょっと。正直、今の仕事を今すぐにでも辞めたい。でも今までサボってきた分、この位は頑張らないといけないと思う。